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「世間や学校に惑わされないように自分軸を持ちたい母」T.A. (2024年4月)

我が家の13歳の一人息子は小4から不登校だ。

もうすぐ4年が経つ。もう4年?まだ4年?人それぞれの受け取り方があると思うが、私は微妙な気持ちだ。

不登校になってから2年ぐらい私はもがいていました。

なぜ、うちの子が不登校に? なんで? お願いだから、みんなが行ってる学校に行ってよ!

私の育て方が悪かったの? 私のせい? 甘やかし過ぎ? 考えれば、考えるほど苦しい私。

そんな私を知ってか息子が暗い。

そして旦那は仕事…。帰宅しても話なんてろくに聞いてくれない。(と、当時の私は思っていた)

 

そんな私も、3年目から徐々に思考が変わってきた。

どうやら私は悲劇のヒロイン役に疲れてきたらしい。

イヤ、開き直りだ。友達とランチや習い事に出かけた。だいぶ、息子を気にかけなくなっていた。

行きたくない子に、学校に行け行け!は逆効果。

思い出せば「ママは俺の気持ちをわかってない!」と、涙をためて訴えてきた息子。

私も、アンタだってママの気持ちをわかってない!と言おうとした時、ふと「もう疲れた」と思った。

ギャンギャン言い合ってきたけど、何の解決にもならなかった…。

そして未だに息子は不登校だ。でも習い事は自分の意思で続けている。

とはいえ息子なりに、この先を考えると不安なのかな?と思い

「将来不安?」と聞いてみたら

「は?不登校の人数が増え続けて(登校人数より)逆転したら、次はあっちがオレおかしいのか?と悩むんだろ?オレはオレ!」

彼なりに色々考えていたのだなと実感しました。

私は今まで、つい学校から連絡が来ると「登校できなくてスイマセン!」と言っていたが、

いやいや「スイマセン」は大切な我が子、登校したくない息子の気持ちに寄り添えず

スイマセンだわ!と思ったら自分に悔しくなった。

惑わされてしまった。親の心配は余計なこと。

心配するなら、脳をだますように「うちの子は大丈夫!」と思いたい。

息子はそう思われたいみたいだし…笑 

 

「大丈夫だよ」 K.M.(2024年3月)

 

 

はじめて学校を休んだ日、仕事から帰ると娘はやっちゃったといった顔をしてウロたえていた。

学校いけなくなっちゃった。どうしようどうしよう。

 

秋ごろから学校に行き渋るようになった娘は、

学校に行かせたい勉強をさせたい親に、暴言を吐くようになった。

うるさい!あっちいけ!しね!クソが!

散々困ってネット検索の末、不登校の前兆のようなものだとやっと理解する。

最高潮は大晦日。いつもは紅白を見ながらゲームをしたりワクワクする大晦日、

娘は大暴言の末にベッドで丸くなりもう消えたいと言った。

年明け初日は頑張ったが、それ以降ぷつりと学校には行けなくなった。

どうしようと狼狽える娘を抱きしめて「大丈夫、大丈夫、絶対に大丈夫だからね」と繰り返した。

なんの根拠もないけれど、そう言わないと潰れそうで、誰かにそう言われたいと一番願ったのは私だったから。

明けない夜はない、やまない雨はない、トンネルには必ず出口がある、

ありとあらゆる言葉で(自分を?)励まして何でもない顔をして明るく振る舞う

いつのまにか娘の暴言は止み、私はゲームや漫画に興じる娘を涙で霞む目をこすりながら見守ることになった。

 

娘に言いたいこと聞きたいことが山のようにある。

が、何も言わない。何も言わないでいられた自分を褒めた。

自分がどれだけ娘に命令し、先回りし考えを押し付けていたか、

話泥棒して、マウントを取って、楽しい会話だと思っていたか思い知らされた。

 

何も聞かない言わないお母さんを娘は受け入れてくれた。

少しづつ自分の考えを話してくれるようになった。

なんとか受験を終えて卒業式に出席できた。

卒業式の手紙には、今年の大晦日は紅白を家族で観たいと書いてあった。

そしてその手紙を読んだもう1人の娘が泣いていた。家族みんなでがんばった。

 

本当に大丈夫なのかなんて誰にもわからない。

人生は流れる川のようで、あちらこちらに寄り道しながら行き着く先はそんなに変わらない。

そんなに真面目に生きなくても頑張らなくても良いんだ、と私は気がついた。

娘には娘の人生がある。それを泥棒しないように少し離れて歩く。

いつか、見えなくなったら無事を祈りながら歩く。

必要とされた時は、抱きしめて大丈夫だよと何度でも言いたい。

『学校 来てないだけ』ねたろうの母 (2024年2月)


社会人6年生の三男が彼女を連れてくると言う。結婚を考えているらしい。

 

最近30才になった三男はかつて中学の同級生の女子Tさんと

「30でお互い独身だったら結婚するか」と言っていたらしい。

 

わが家の三男は長男次男と違い不登校経験者ではない。

一方Tさんは学校が性に合わなかったのか、学校には来ていないと聞いていた。

Tさんはほとんど学校に行っていなかったのに友達は少なくなかった。

三男もそのうちの一人であった。

初詣に一緒に行くような仲間で、三男の話題にちょくちょく名前は出てきていたが

Tさんとの面識はなかった。

私が彼女を強く認識したのは、中学の卒業文集にクラス代表で文章を書いていたからだ。

内容こそ覚えていないが、しっかりした賢い文章だった。

「Tさんて頭のいい子でしょ」と三男に言うと「学校来てないだけ」と言った。

なるほど。

 

その後も友達関係は続いて、一度車で三男を迎えに来てくれた事があった。

多分その時が初対面だったと思う。

挨拶すると「お預かりします。運転に気をつけます」と保護者のような返事がかえってきた。

同い年だけれどすっかりお姉さまだった。
 

三男は30才になるまで独身だったが、Tさんは結婚と離婚を経験し現在は再婚しているという。

わが家とは縁のないお嬢さんだったようだ。

 

今月飛行機で会いに来てくれる彼女とは、縁があるといいなと思っている。

 

『息子の人生、私の人生』K.Y. (2024年1月)

中1で息子が不登校になった時、

この子の将来はどうなるのだろう?高校は行けるのか?と、とても不安でした。

それと同時に、周りからはどう見られているのだろう?と自分にも自信がなくなり、

誰にも会いたくない日々が続きました。

どうしてうちだけ…、と周りと比べて落ち込む毎日で、

この時の私は、息子を元の道に戻そうと必死でした。

この考えから抜け出せたのは、未来の会を初め、いろいろな親の会で出会った人達と、

たくさんの話をし、元気づけられ、心を共有してもらい、

自分だけではないと思うことができたからだと思います。

そして、いろいろな道があることを知り、安心することができたからだと思います。

みんなと同じ道よりも自分が進んでいける道へ、息子も私も元気で笑顔でいられるように。

もし、誰にも会いたくないとずっと家の中に引きこもっていたとしたら、

自分の中だけで悪い考えの悪循環が起こり、もっと状況が悪化していたのかもしれない。

この間息子に、「自分の基準で物事を考えるな! 自分だけが正しいと思うな! オレはオレの考え方がある。」

と言われ、今まで自分の基準や価値観を息子に押し付けていたことを反省しました。

それと同時に、私は私でいろいろ考えているように、

息子は自分でいろいろと考えているんだな、と感じました。

息子のことは自分で考えているのならば、任せようと思いました。

これからは息子の将来ではなく、自分の幸せを考えていきたいと思います。


 

 

観 察 』  T.A  (2023年12月)

我が息子が小4の夏から不登校なった。

現在は中1で、やはり不登校。明るく元気に4年目へ突入しています。

当然、なかなか社会性を身に付ける機会が無く敬語を知りません。

たまに会う担任との面談では「敬語で話しましょう。」と言われ「あ、ハイ…。」

横でほくそ笑む私。

昼夜逆転は治った時もあったが、今はまた朝4時頃に寝て、昼過ぎに起きる。

やっていることはゲーム、動画ばかり…。

いつ飽きるのか…。

我が子はADHDなので、なかなか行動パターンが変えられず、過集中でゲームがやめられない。

 

       悩むのはもう疲れました。

       相談する機関も尽きました。

       何も変わらないのかな?

 

さぁ、どうする?と思った時、実は本人も、どうしたら良いのかわからないのでは?と…。

だから、毎日ダラダラ過ごして1日が終わる生活をするしかないのかな。

話し合いをしたくても、

我が子は「うるせー」「うぜー」「腹減った」「飯!」しか言わない。

 

それでも息子の心の内が知りたい私。

母の愛ビーム!を送りながら

引き続き、ただ彼を観察します。

 

それしかない!

乞うご期待!

 

『心が元気になるのを待つ』S.Y.(2023年11月)

未来の会に初めてお邪魔したのは息子が不登校になって3ヶ月ほど経った頃です。

「心が元気になれば自分から動くようになるよ」とお話してもらったのですが、

初めは正直、ピンと来ませんでした。

話しかければイライラした態度、気に入らないことがあると悪態をついたり、

弟たちに暴力を振るう息子を前に、この先どうしたらいいんだろう…という焦りや不安。

何より学校に行って欲しい気持ちが強く、受け止めるゆとりが無かった、と言うのが正しいかもしれません。

もう一つ、受け止めなければならなかったのは、子どもとの関わり方を見直すことでした。

反省する点が沢山ありました。

それからは“心が元気になるのを待つ”ことと、“親子関係を整える”ことを意識して、

子どもと向き合う日々が始まりました。

ですが、意識はするもののすぐには私自身変われませんし、思うような関わりが出来ず、

心が折れるような日もありました。泣いた日も沢山ありました。

ずっと葛藤と闘いながらの毎日でしたが、

今の状態が続くわけではない、学校に行けていない今が全てではないという思いを持ちながら、

一日一日を過ごしてきた感じです。今も途中です。

未来の会への参加から約1年経ち、中学3年になった息子は、

最近習い事を始めたり、進学に対して前向きになるなど、心が元気になってきたように感じます。

家の中で笑って話す姿も増えました。

学校に少しずつ行き始め、大変なことも乗り越えようと頑張っています。

「心が元気になれば自分から動くようになるよ」今はこの言葉が私の心の支えになっています。

一歩踏み出し、動き始めた息子が、また一つ一つ乗り越えていくことを信じて、これからも応援したいです。
 

 

 

『信じて待つということ』K.A. (2023年10月)

長女は、中学校1年の夏から卒業まで学校へ通う事をやめてしまいました。

「学校とは必ず行かなければならない場所で、欠席するには必ず理由が必要」と

刷り込まれている私にとってはまさに青天霹靂。

原因は何なの? お友達の事? 勉強の事? いじめられた? と、

思いつく事を本人に聞いてみても「行きたくないから行かない」というばかり。

ベッドに引きこもり、お風呂も入らず、家族が出かけた後にやっとリビングに出てくるような状態。

 

インターネットで探せば何か対策があるのではないか。暇さえあればスマホで検索していました。

見つけた「うちの子はこうやって学校に行けるようになりました」という方法はまったく効果はありません。

怒ったり、泣き落としをしてみたり、もので釣ってみたりしても効果なし。

学校の先生に相談しても「今は様子をみましょう」と言われるばかり。

 

様子を見るとか信じて待つとかもよくわからないし、

生まれてからこれまでもこれから先も一緒に生活をするのは私達家族なんだし、

外部の人が責任を持ってくれるわけでもないし、

それなら「本人が学校行かないならそれも良し! 今もこれからも、元気に生きててくれるのが一番」と決めました。

 

それまでは、「今日は何したの?ワーク進んだ?」と、

学校に行かないのなら家で何か勉強をして欲しいと声掛けをしていましたが、

一切やめて漫画やゲームの話題を振ってみることにしました。

初めこそ「うん」とか「ちょっとだけ」としか返事をくれませんでしたが、

そのうち「〇〇が難しかった」とか「やっと全部クリアできて嬉しい」とか詳しく話してくれるようになり、

家族みんなでゲームをしながら笑うという幸せな時間まで戻ってきました。

 

2年生になるころには、ゲームもするけどワークも答えを書き写す位は出来るようになり、

定期テストで「また漢字だけ満点だった(笑)」とテストを面白がる一面も。

3年生で進路を決める時には自分で

「毎日登校しないといけない学校はキツイ。定時制は知ってる人が居たら嫌だな…」と

自分なりの条件を考えてくれました。

 

そうか、あの時無責任な! と勝手に一人で憤っていた「様子を見ましょう」「今は待ちましょう」というのは、

「こういう状態になること」だったのかと、やっと私も実感することが出来ました。

この先もきっと色々な壁が出てくるのだろうと思います。

「うちの子なら大丈夫!」と自信満々とはいきませんが、

親として一緒に色々な選択肢や情報を集めながら彼女の選択する力を信じて見守っていきたいと思います。

 卒業式が終わると、恐ろしいほど散らかっていた部屋を自分で掃除をして、

模様替えもして居心地のいい空間を作り

「もう私は不登校じゃないの。自分で通信高校を選んだの。だから家に居ていいの」と

話してくれた彼女の表情は晴れ晴れとしていました。

 

 

「秋の夜長に!」 I.I. (2023年9月)

最近の私の読書は寝る前の布団の中。

ほとんどは数ページ読みすすむと睡魔に勝てずに本を閉じる事になる。

そんな中で、昼間も引き続き読み進めた本をご紹介します。

○「私はスカーレット」 林真理子

青春時代「風と共に去りぬ」を読み、映画を観てヴィヴィアン・リーの美しさに憧れ、アシュレの優柔不断さに憤り、レットの優しさを素直に出さないもどかしさに苛立ち、スカーレットの生きる事への潔い強さに惹かれました。

その物語を林真理子さんがスカーレットの一人称で書いた本。大人の視点で(随分大人)また楽しめました。

 

○「誰がために医師はいる」―クスリとヒトの現代論 松本俊彦

薬物依存について、使ってしまう人の心のありようや依存に陥る経緯、予後など分かりやすく語ってくれている。

薬物依存の実際を学ばせてもらった。

 

○「世界一やさしい依存症入門―やめられないのは誰かのせい? 松本俊彦

依存症について解説し、当事者や周りの人への支援についても書かれている。

中学生を対象に書いたとあったが、私にも読みやすく分かりやすかった。

○「自分を傷つけてしまう人のためのレスキューガイド」―自傷行為、摂食障害、物質乱用・依存に悩む人の回復と支援のために 松本俊彦

リストカットや摂食障害等について理解と支援について学べる。

このような状況にある子ども達にどう声をかけていいのか難しく、考えすぎて距離を置いてしまうようなところもあったが、少し心を近づけるような気がする。

 

○各分野の専門家が伝える「子どもを守るために知っておきたいこと」

育児・医学・食・教育の各章で身近な問題に一つ一つ専門家が解説する。

なんとなく引っかかるなとか、何を基準に判断したらいいのだろうとか、迷いながらやり過ごしてきたことを考えるヒントが沢山あった。

全て図書館から借りました。今度はファンタジーもいいな!

 

「こんな日が来るんです!!」匿名 (2023年8月)

人は変わってくれないようだ

自分は変われる?

顔も心も下を向かないように

プラス思考になるために、ちょっとだけ勇気を出して

今できることありますか?

例えば

顔を上げてみる 背筋をのばしてみる 伸びをする

窓を開けてみる 外の空気を吸ってみる 空を見る 外に出てみる

散歩してみる いつもと違う場所で買い物してみる

飲んだことのない飲み物を飲んでみる

鏡を見て、笑顔を作ってみる

髪型を素敵にする きれいにお化粧する

明るい洋服を着る いつもと違う服を着てみる

気持ちが明るくなったり、楽になったり、楽しくなれる人の側に行く

気持ちが楽になったり、楽しくなれるモノと関わる

花や野菜を育ててみる(家の中でも) できたら誰かにプレゼントしてみる

喜んでくれそうな人に 笑顔が返ってくるかも

動物を飼ってみる 毎日お世話してやると動物は分かって懐いてくれるよ

言霊って知ってる? 言葉にすることは実現するんだって!!

「私は最高!!」「私は最高!!」ってブツブツつぶやき続けると…😊

まだまだあるよ 行動なら何でもいい やり続けられるかな

どうか自分を大切に

人間は「命」と「人間性」が大切ですね

そして

自分と同じだけ人を大切に

人の役に立つと、それが全部自分に返って来たんだ 本当です

人からの「笑顔」や「ありがとう」は、幸せの種!!だった

勇気や自信が湧いてきた

 

今の悩みに囚われて、怒ったり、悲しんだり、落ち込んだり、苛立ったりするのは…

自分が惨めになるだけだった
 

 

「時々、思い返す」 M.A(2023年7月)

あまり、昔の事や過去の辛かった出来事などは振り返らない様にしていますが
時々、思い返すのも悪くはないかなと。


文字にして文章にしてみて、改めて思う事が沢山あります。
自分自身も新しい出会いがあり、出会った人にとても恵まれている事、
辛い時に支えてくれる人に感謝しています。

息子は今、中学生です。
学校に行けなくなった時に、辛く苦しんでいる姿をみた時には
心が締め付けられました。
まずは、ゆっくり休息させようと決めました。

今年の春にフリースクールに行くと自分で決めて、いま通っています。
この先も、辛い時は無理をしないで休息をとりながら進んで欲しいと思っています。

親だってストレスもたまります。
そんな時は、友達とおしゃべりしたり美味しい物を食べたりして
エネルギーをチャージしてます。

 

「痛みのあるプロセスを楽しむ bliss」 K.S.(2023年6月)

 

「授業のゲストにきた先生を見て、どっかで見たことがあるような気がするなと考えていたら、

中1のときの校長先生だったことを思い出したよ。

急に昔のことを思い出して、手が震えてきた。自分でもびっくりしたよ。

鉛筆を握る手に力がぎゅっ入って震えてくるんだ。

自分でも止められなかった。

でも、授業は受けて質問もしたよ。誰もいないから一番にしちゃった。」

これは普段口数の少ない我が子が、一気に語った言葉。

自分を表現することが苦手にもかかわらず、自分の感情をここまで言語化し、

人に伝えることができたことに胸が熱くなりました。

我が子には、このように伝えました。

ちょっと我が子は照れていたように見えました。

「気持ちを教えてくれてありがとう。それがとてもうれしいよ。

そんな中、質問までしちゃうなんて、なかなかできないと思う。

私なら教室から逃げちゃうかも。よくやった。最高の気分だ。」

小学校ではお休みすることは全くなかった我が子も、中学校に行って一変。

学校に行くことがつらくなり、中学校1年生冬休み明けから本格的な不登校スタート。

詳しい理由については割愛させていただきますが、

足が動かなくなったので相当つらかったのだと思います。

高校は、希望の通信制高校に進学。

そして、なぜか教員免許が取れる大学に入学しました。

この時期、私自身も人生のどん底にいるような感覚ではあり、

正直二度と経験したいことではありません。

しかし今では自分とは違う道を知ることができた痛みを伴うプロセスだったと

今は思えるようになりました。

・たとえゴールは見えなく暗闇にいるような感覚でも、同じ状況が続くということはないこと。

・人は力を持っていること。

・親はその人の力を信じその力を発揮するそれぞれのタイミングを待つことが大切ということ。

・子どもが自分で決めて行動したときは、ものすごい瞬発力があり力を発揮すること

・子どもの話を聞き、否定せず「そんな考えもあるんだね。」と受容することが大切なこと

これらのことに気が付くためには、私には6年という歳月が必要だったに違いありません。

このことによって、私自身「~ねばならない」思考を手放し、

ずいぶん生きやすくなってきました。

成長するためのプロセスには痛みを伴うこともあります。

しかし、そのプロセスを経た後には、

想像したこともないステキな未来が待っているはずです。


※先生方へのお願い

子ども達に様々なことをしていただきありがとうございます。
子ども達の未来をよきものにというゴールは、保護者とほぼほぼ同じだと思います。
しかし、子どもに良かれとしたことが、トラウマとなり6年もたっているのに

フラッシュバックなど症状が出ることがあるのです。
子ども達を手放した後、先生の対応がトラウマとなり

苦しむ子どもが存在することを忘れないでください。
そして、今目の前の子ども達がトラウマを抱えないような対応をしていただけると、

日本の未来はもっと明るくなるのではないのでしょうか。
どうか、社会の宝物である子ども達のため今後もご尽力よろしくお願いいたします。

 

『かわいかったのに』 -M- (2023年5月)

 

息子の犬を預かった。
一日中ナデナデしていたら、いろいろと昔のことを思い出した。
 

子どものころ、立派な人にならないと親に嫌われる、

とうっすらと思っていたこと。


親になったとき、子どもを立派な人に育てなければならない

と思って頑張ったこと。

 
優しくない親だったこと。

 
不登校と何年も対決して、とうとう成功者の人生に導くことを諦めて、
やっと子どもを可愛がれるようになったこと。

 

よく親を見捨てずに頑張って不登校でいてくれたものだと
ありがたく思うけれど、でも時々、
 

立派な人間になりなさいととわたしを怯えさせた人を、
殴ってやりたいとも思う。

 

 

「人間万事塞翁が馬」Y.H (2023年4月)

 

長女が完全に不登校になったのは12年前の中学3年の秋でした。
今思えば長女は中学入学してしばらく経った頃から

色々な不調(味覚障害、耳鳴り、眩暈、匂い音光が引き金の頭痛など)に悩まされていました。

それぞれの症状で病院を巡り、味覚障害は耳鼻科(原因不明、亜鉛不足?)

頭痛は脳外科(片頭痛?)眩暈は小児科(起立性調節障害の疑い?)と

どこの病院でもはっきりとした原因は分からずじまい。
自分の症状をうまく説明できず困る長女をフォローしようと、私がお医者さんに説明すれば

「お母さんは黙っていてください」と言われるしまつ…。


中学2年くらいから欠席が明らかに増えはじめ、その3月には東北の震災がありました。

その時長女は吹奏楽部で卒業式のための練習中。

その日は何事もなく帰宅したのですが、

その後のTV報道や余震もストレスだったようで、不安から情緒不安定になる事もありました。


中3に進級後ほぼ半々だった出席と欠席の割合はあっという間に逆転し、夏休み前にはほとんど欠席。

後期から完全に不登校となりました。
「学校に行きたいのに行けない」と言い続けていた長女が

初めて「行けない休みたい」と泣きました。

中学2年の次女がこの時「やっと言ったよ」と。

たぶん次女だけが分かっていたのだと思います。

長女が私のために「本当は行きたいのに行けない」と無意識に言っていたことを。


私は本人が行きたいのなら登校出来るようにフォローすべきだと行動し、

登校など出来る状態ではないのに2人してから回っていたように思います。
その後、私立高校に入学するもひと月で不登校に。

自主退学し通信制高校の通学タイプに再入学も、2年の途中から再び不登校。

完全通信制に移るも続かず自主退学となりました。
その間、体調不良は悪くなることはあれど回復はせず、

いくつかの病院にかかり散々ドクターショッピングを繰り返したため

人間不信、医者不信に陥った長女は病院には行きたがらず、

最終的に自宅で静養することとなりました。


それから7年。

特に次女が就職して家を出てからは割と穏やかな日々が続いていました。
コロナ禍の3年間は不安から情緒不安定と体調不良になることもありましたが

自分から報道を見ないようにするなどコントロールして頑張っていました。
形の上では完全な引きこもりです。

寝たり起きたりの生活で少しずつ起きて過ごせる日が増えていければそれで良いと、

このまま夫と長女と私で10年20年と淡々と過ぎて行くようなそんな気がしていました。

今年2月、長女に卵巣腫瘍が見つかりました。

3月に手術し病理検査の結果悪性腫瘍とわかり4月から抗がん剤治療が始まりました。
病院や医者が苦手で他者に自分のことを話すのが苦手な長女が、

入院生活を過ごすのはかなり辛いはずなのに頑張って治療を受けています。
ずっと「生きているのが辛い」と言っていた長女が

「家族のために治療を頑張る」と言ってくれました。
今はコロナの関係で家族の面会も出来ないため、

今朝も入院先から家族のグループLINEに体調などを知らせてくれます。

3月の手術後に退院してから傷の痛み止めの薬を飲み終わったあと

何日かして長女が「その後痛み止めの薬を飲んでない。薬がいるほどの頭痛が何日かない」と。
入院生活で生活パターンが変わったせいなのか、

少食だったのが頑張って食べるようになった為かはわかりませんが、

酷いときは月の半分以上頭痛に悩まされていたのが明らかに減ったのです。
「これって人間万事塞翁が馬?」と長女。

この先何がどうなっていくかはわかりませんが、

あの先の見えない中を必死に動き回っていたころの自分に言いたい。

大丈夫。人生なんて人間万事塞翁が馬だからって。

それを長女が教えてくれたからって。

「もうすぐ終わる中学校 」 K.Y.(2023年1月)


不登校になって2年半がたとうとしています。

最初の頃は自分の部屋にこもり、食事も食べたり食べなかったり、

家族との会話もほとんどなく、気に入らないことがあれば、暴れる、そんな毎日でした。

友達ともだんだんと連絡をとらなくなり、

家族以外の人との接触は断っているように感じました。


5か月ほどたった頃、久しぶりに外に散歩に行き、

何度もドタキャンしながら床屋に行き、

少しずつですが、家の外へも出られるようになりました。

それから一年後、少しずつですが、学校に通うようになりました。

文化祭、修学旅行、体育祭と参加し、力尽きたのか、中3の夏、また学校へ行かなくなりました。


学校へ行き始めると、まるで休んでいたことがなかったかのように、

同じ宿題、テスト、その他休んでいた分の所まで一気に求められるようになります。

仕方のないことなのかもしれませんが、

ずっと家にいて、勉強も運動もしていなかった子にとって、

それを継続させることは難しいのかもしれません。
不登校だった子の、別のプログラムがあれば良かったのにと思います。


しかし、二度目の不登校は、用事があると外出します。友達とも出かけます。
一度目の不登校はどちらかというと行けなくなった、

二度目は行きたくないから行かないと自分で決めた、の違いでしょうか。


少し前から自分と同じ境遇の友達が欲しいというようになり、

どこか学校の他に居場所を探し始めました。

タイミングが合い、通い始めた場所、とても居心地がいいみたいです。
その影響もあってか、祖父と一緒にパソコンを組み立て、

自分のパソコンを持ったことで、調べたり、聞いたりして、いろいろと始めています。
息子にとってここは、学校以外に頼れる大人がいる場所です。

否定しないでできたことをほめてもらえます。

親ではできない経験をさせてもらえます。
この経験から、他にももっと、自分の居場所が増えて、

外の世界が不安ではなく、楽しいものに変わっていくと嬉しいです。

 

『今、思う事』  KURIHARA.N (2022年12月)

学校に行かなくなり、5年になります。
この出だしも、なんだか変ですよね。学校にいかなく…って。
将来への心配は、親になれたからこそ。


子どもいないは、一粒の涙。
子どもいるは、千粒の涙。
私が、若かりし頃に出会った、障がいをお持ちの親御さんからいただいた言葉。

学校のシステムも制度疲労でしょう。
たしかに偏差値偏重教育は親子を追い詰めてるのかもしれません。
よくよく考えてみると、今生きている社会の中で、生まれた時から、評価されてきた私たち。
そう ふと想起すると、システムに問題があろうとなかろうと、

人と人とがつながっていて、受けた評価の結果にかかわらず、

いえむしろ、つらい結果なら、なお一層、寄り添い歩む人々が傍らにいてくれたのなら、

幸せに日々を送れるのではないのでしょうか。

知識社会、と言われるようになると困難であったことが克服されその恩恵を受ける私たち、

一方で、ますます、知識の獲得を志向するようになるのかしらと、老婆心。
障がいや病気があると、障がいと病気の知識で人を見るようになり?…
でも、我が子を通じて、知識だけではなく、より思考だと気づかされるのです。

我が子は、最近、以前使用していたドリルで勉強し始めました。

なぜなんだか、わかりません。

たぶん小遣いかぜぎ?! それもよし。子ども任せです。

中学1年ですが、小学校5年生のドリルから始めました。

小4年までは家で勉強していたので中断していた5年生から。
その様子を見ていて気づいたことは、早期教育って子どもにとってしんどいんだってこと。
中1になり、臓器が成熟し成長発達した我が子にとって

小5くらいの勉強が丁度良いんだということ。

我が子は、もともと勉強が中でも算数が得意でしたけど、

脳みそフル回転させて頑張ってたのでしょう。

学年を気にせずに、自分がやり始める勉強。

学年、年齢の壁、プライドは低くして。

だから、学校は、学年とか、年齢とか、抜きにしていいのかも。


一斉にする知識勉強は生活に必要な最低限にしたらいい、

後になっていくらでもその時のトレンドで勉強できる。

その分好きなことやりたいことにシフト。

好きなことで、難解な勉強もするでしょうし。

ってことは、学校で勉強しなくてもね、良いかもって、

好きな時に好きなことをしに学校に行くくらいのゆるやかさが、

小さいときにできたら、子どもらしく子ども時代を過ごせる。

学校以外の場所もOK。
次々と妄想が膨らみます(笑)

大人もそう、リスキリング。ちょっとはやっているでしょ。

大人になって学ぶと、早期教育の意味って感じない。
むしろ、子ども時代の早期教育なんかで勉強が嫌になる? 

勉強していれば良かった、と大人になって思って、子どもにさせる事はもう必要なし。
大人になっても学べる時代になっています。


逆に、自分のやりたいことを早くからやっていれば良かったと心から思うのです。

好きでずっとやり続けてることは、自信をもって人様に提供できる。

つまり、その中の何かしら、小さなことでも社会の、人様の役に立つことがあると思うのです。

かくゆう私は、やりたかったことよりも、やらねばならないことをやってきた?(笑)
私の小学校時代の学校での写真は、どれも笑っていません(汗)

取り留めのないことをながなが書いてしまいました、お付き合いありがとうございます。
 

 

「良き理解者になれたかな?」(2022年10月)I.Y.

息子の晴れ晴れとした顔を見るのは久しぶりだ。
就活を終え、来春に向けて事前学習の日々を送っている。
社会人として2度目のスタートである。

未来の会に初めて参加したのは17年も前の事だ。改めて時の流れを実感する。
いつも温かい励ましの言葉を掛けて下さったKさん、Iさんには心から感謝している。

振り返れば本当に色々あった。
不登校に悩んだ時期も辛かったが、もっと辛かったのは
息子が外との接点を持てずに過ごした期間である。
焦りややるせなさが募り、どんどん追い込まれていった。

息子は表面上は穏やかに過ごしていたが、苦しんでいたと思う。
状況はなかなか変わらず、出口など何処にもないように思われた。
けれども、その先はあった。

おそるおそる踏み出した一歩。数年ぶりの進学。
不安を抱えながらも少しずつ経験を積み重ね、力をつけていった。
まるでリハビリのごとく、である。

その後一度は職にも就いたのだが、予期せぬことで退社せざるを得なくなる。
この時のショックは大きかったと思う。
暫くは立ち上がれなかった。

それでも後戻りはしたくなかったのだろう。
なんとか前を向いて進もうとしていた。
かなりの時間を要したが、幸い良い出会いに恵まれて、
助けられ励まされながらやっとここまで来たのだった。

ある時まで息子は私に胸の内を明かすことがなかった。
話せる相手ではなかったのかもしれない。

心を開いてくれるようになった今、私は彼の良き理解者になれただろうか?

まだまだこれからである。
「安心」はなかなか訪れてはくれない(^_^;)
今私が出来るのは、息子が選んだ道を応援する事だけだと思っている。

 

「不登校という呼び方」T.A.(2022年9月)

数年前から「ひきこもり」を「こもりびと」と、呼び方を変更した市がある。

従来のイメージにとらわれず、より温かみのある言葉でということから、

こもりびとと称することにしたとのこと。

すると市の「こもりびとコーディネーター」への相談件数が増えたという。

イメージって大事だなと思った。

ならば「不登校」だって呼び方を変えれば、

私たち親子はさほど悩まずに済んだのではないだろうか...。

「不登校」という呼び名で随分と「どうしてウチの子があの不登校に? なぜ?」と、

自宅の窓越しから見る登下校中の生徒の姿を見ては

「うちの子は登校していない」「もう長袖を着る季節なんだ」「おしゃべりして歩いて楽しそう」と、

見なければ良いのに見るたびに悲しみの中で勝手に暴れもがき、

なんとか登校させようとやっきになったりした。

教育委員会へ連れて行き相談をしたり、不登校に関する本を読みあさりました。

結局、私にとって何が良かったかというと、

こちらの会でひたすら話を聞いてくださったことが何よりで、

気づきがあり、お仲間がいるという大変心強い場であり、安心を得ることができました。

(現在進行形…まだまだお世話になります!)

そして、当の息子には「ママ期待しないでね。俺、学校アレルギーだから」と言われたので、

それ以来あまり期待せず好きにさせました。

すると「暇だ~」「暇だ~」と言い始め自らだんだんと外へ出始めました。

今は3つの習い事を始め、来月は漢字検定を受けます。

今、私と息子はなんとなくそれぞれが自分らしく生きている気がします。

ちなみに主人は不登校当初から何も変わらず(息子が大好きなので)

聞けば やはり「うちの子は大丈夫!」と言います。信じているそうです。

私はまだまだ息子の将来を考えると心配になることがありますけどね。

でもね、もしこの世にタイムマシーンでがあれば、

息子が不登校になり始めた2年数ヶ月前の私に言いたい。

【あなたは今「不登校」って言葉に惑わされて眠れないし、とてもしんどいよね。

でも大丈夫よ。あなたは開き直って「不登校2周年おめでとう!」って

息子へケーキでお祝いしているから!

あの子はしっかり生きているよ。心配ない!】

 

「思いは必ず叶います」(2022年8月)

  こどもの引きこもり
  怒りを爆発させるように


  解決を目指して
  相談会、親の会、病院…
  出会った方々に、励まされ支えられながら、


  しかし、徐々に
  自分が弱っていく
  親は無力と知る…
  子どもを信じるのみ

現在
こどもはどん底から這い上がり、自立の道を歩みだした
救ってくれたのは、
好きだったこと、得意なこと


人との出会いがプラスに働き出す
ただただ感謝

こどもはこどもの道を
私は私の道を元気に歩む
周囲のお役に立ちながら

困っているのは自分だけじゃありませんでした
みんな苦しんで生きています
一番辛いのはこども
まず、親が自分を大切にする
視野を広げよう
外に出よう。人と話そう。笑顔を作ろう。好きなことをしよう。

思いは必ず叶います。
親もこどもも自分の幸せを掴むために。

 

 

「未来のために…」 M.S.(2022年8月)

「もう無理…」と言い不登校生活が始まって1年が過ぎました。

元気いっぱいにお腹の中で動き回り、元気いっぱいに誕生して、

元気いっぱいに走り回り、元気いっぱいにお話をして、

家族のムードメーカーだった末っ子の息子。

まさかこんな日が来るとは思ってもいませんでした。

なんで?  どうして? なにがあったの? 最初は疑問だらけです。

頑張り過ぎたのかな、無理してたのかな。

もっと早く変化に気づけたら、防げたのかな。

もっと心の声に耳を傾けてあげていれば…

1年前はどうしたら学校に行ってくれるのかばかり考えて、

問題が解決したらまた元気に学校に行ける日が来ると。

学校でしか学べないこと、色んな事を乗り越えて成長していくものなんだと。

私もそうしてきたから。それが当たり前だと思っていたから。

すぐには理解する事が出来ずに、

この先どうなってしまうんだろうと不安で、気持ちばかりが焦っていた。

学校やスクールカウンセラー、ふれあいルームにもお世話になりましたが、

すぐには気持ちの切り替えも出来ず。

縁があって未来の会へ導かれるように来て話を聞いていただく事で、

新たな世界を知り、新たな学びがありました。

色んな道があると言うこと。

本人が元気になればいつか動き出す時がくる。

今は色んな事に興味を持ち始め、たまに一緒に料理したり、体育館行ったり、

私の趣味の登山にもたまに付き合ってくれます。

意欲が出てきたと言うことは前進してるってことでしょうか。

人それぞれ成長が違います。

うちの子は大器晩成型、ゆっくり成長していくんだと…。

今は色んな経験をしてゆっくりでもいいから、前に進んで行って欲しい。

未来のために、これからも寄り添う気持ちを忘れずに、見守っていけたらと思う今日この頃です。 

 

 『 息 子 へ 』 T.H. (2022年7月)

「行きたい。」指定ジャージに着替えて、鞄を背負って準備をする。

いざ時間になると目眩がして。徐々に着替えられなくなり布団に潜るようになり、

息子は中一の夏休み明けから学校を休むようになりました。

私は何とか行ってほしくて、口では無理するなと言うが心は落胆し、

行けない息子を責めていたように思います。

私は様々な本を読みまくり、子供の頃から良かれと思ってかけてきた言葉の数々が

息子の自己肯定感を下げていた事に気づき大泣きしました。

「あぁ間違えてしまった。この子はこの子の良い所を伸ばしてあげれば良かったのだ。」

「自分と他人の命を大切に出来て思いやりのある子に育ってくれれば、

それ以上に大事な事など無いではないか。」

 

未来の会で頂いた「子供より前に出ない方が良い」「話を良く聴くこと」との言葉を胸に留め

数か月見守ってきました。

中2になり4月から、凄い頑張りで動き出した息子。

6月に入り徐々に休みがちになり、布団を被り葛藤する息子に親として何が出来るのだろう。

何と声を掛けても違うような気がして…。

今私に出来る事は、美味しいご飯を作って笑顔で何気ない会話を交わす事。

思いを語らぬ息子がいつか話してくれた時に、心から傾聴出来るような親になりたいと思います。

ただ何も考えず休みたい時ってあるよね。ゆっくりで良いよ。

大丈夫。あなたには良い所がいっぱいあるから。

いつでもまたチャレンジしてね。

 

『自分の不登校』ねたろうの母  (2022年6月)

小1の時だった。
朝になるとおなかが痛い。かつての私も不登校児だった。
どの位の期間だったか定かではないが、父や母が悩み困惑していたのは覚えている。
大人になって考えると、あれは母親との分離不安だったと思う。

 

参観日の図工を不安がる私のために、母が担任に頼み、

作品の下準備をしていく事を許してもらった事もあった。
原因が精神的なものと感じていたからか、脅しだったのかはわからないが、

母は「病院に行ってみるかい? 入院になるかもしれないよ。」という事もあった。
学校から帰ってくると何事もなかったかのように元気な私は、

明日は大丈夫と約束した。

翌朝はまたおなかが痛くなった。連日その繰り返しだった。
 

ある日いつもの約束をしている時、ふとこれ以上母に心配をかけてはいけないと思った。
その後すんなりと学校に行けるようになったのか記憶ははっきりしないが、あの思いは転機になった。
あの頃の事をぼんやりと思い出すが、母がどんな表情をしていたのかは思い出せない。

只々心配をかけて申し訳なかったと思う。
息子たちはどんな風に自分の不登校時代と母親のことを思い出すのだろうかと考えた

 

『思ったほど悪くない』M.M.(2022年5月)


長男34歳、次男31歳。
彼らを学校に行かせようと困っていたのはだいぶ前のことになってしまって、

今とは事情が違うかもしれないけれど、思い出して書いてみる。
 

毎日、とにかく悩んでいた。

精神科の診察室で泣きながら

「自分は精神病なのではないか。そのせいで子供たちが学校に行かないのではないか。」と訴えたこと。
スクールカウンセラーの面談で、息子が家でゲームばかりしていて困る、と相談したら

「不登校の子はそれ以外することないでしょ。」と返されて腹を立てて

「こいつ使えねぇ!」心の中で毒づいたこと。
このままではどんな大人になるんだろうと将来が不安でたまらなくて

「いつまでも家から出ない子供と暮らす未来なんて嫌です!」とわんわん泣いたこと。
 

現実に耐えられなくて毎日飲んだくれていたこと。
部屋で木刀を素振りして夫に嫌がられたこと。
壁にお皿を投げつけたり、包丁で切りつけたりしたこと。
現在、長男は家を出て自立、職業はパチプロだそうだ。

次男は非正規雇用で毎日真面目に働いて年金を払い、生活費も入れてくれている。
 

夫に「不登校のお父さんに何かアドバイスない?」と聞いてみたら

明るく笑って「あきらめれ」だそうだ。
理想は叶わなかった。

が、なかなかに楽しい。           

 

『この2年を振り返って』K.Y.(2022年4月)

 

中1の夏休み明けから始まった息子の不登校。
最初の頃は両親祖父母みんなで、どうして行かないのかと責め立て、

そのため、家の壁には穴が空き、自分の部屋に閉じこもり、食事もあまりとらなくなりました。
今までの私の人生の中で、学校に行かないという選択肢がなく、意味がわからなかった。

 

それから約半年間、家から一歩も出ることなく、

ひきこもり、どんどん筋力が落ち、顔色も悪くなっていきました。
その頃には学校関係、友達、全てと連絡を断ち、

学校に行けなくなった自分をずっと責めているようでした。

「オレの人生終わった」その時の息子の言葉です。


その間私はたくさんの不登校やひきこもり、心理学の本を読み漁り、

未来の会や病院、スクールカウンセラー、親の会などでたくさんの人の話を聞き、

少しずつ息子を受け入れていったように思います。
親が息子の様子を受け入れ、半ば諦めた頃、

息子は少しずつ元気になっていきました。

今では、卒業するまで学校に行ける気がしないと言っていたのに、

中2の秋から学校に戻り始め、行ける範囲で通っています。
 

戻るためにも、学校の先生、友達、親戚、たくさんの人に助けられました。

とはいえ、いろいろなことに敏感な息子にとって、学校はとても疲れる場所のようです。

1日行くと次の日は休みます。

しかし、以前のように100%やらなければということは少なくなり、

今の自分でできる範囲で少しずつゆっくり休みながら進んでいるように思います。
 

今年は中3、受験の年になります。

またプレッシャーが増え、どうなるかわかりませんが、

今できる範囲でできることをやっている息子を見守っていきたいと思います。
                                    

 

 

『忘れられない言葉』 ねたろうの母 (2021年3 月)

春になると思い出すのは次男の高校入学の時に知人にもらった言葉だ。

次男は義務教育をほとんど不登校で過ごした。

卒業を控え、今後のことを心配していたら担任から

「私立の〇〇高校なら単願で入れてくれるかもしれません。

学力試験もありますが、その前に親子で面接に来て欲しいという事です。」と電話があった。

それまで、定時制高校や地元から離れた小さな公立高校を見学にも行ったが、次男の心は動かなかった。

それがその高校なら行きたいと言い出した。

親子の面接では「今までみたいに休んでいたら高校は卒業できないよ大丈夫?」と

横で聞いていてハラハラするようなことを聞かれていたが

次男は「頑張ります」と答えていた。

長い不登校の間に考え、充電できたからなのか、高校には行くときめたようだった。

でも今まで、行くと約束した翌朝にはそれがデキない。

そんなことを何度繰り返してきたことか。

親としては不安である。

そして入学式。

入学式こそ親子で登校するが、明日から電車を乗り継いで一人である。大丈夫だろうか? 

思わず隣の席の知人に愚痴った。

 「入学金、制服、定期券、たくさん(お金)かかっちゃったけど明日から行かないって言うかも…。」

 「でも、嬉しい出費でしょう。」と笑顔で言われた。

そうなのだ。

今ここで制服を着た次男の姿を見られるなんて少し前には考えられないことだった。

明日の事はわからないけど、今日は今日。

ここまでできたことを喜ぶどころかグチグチ言った自分を反省した。

あれから何年たってもあの一言は忘れない。

                                 

 

『何とかなるさ!』 M.A. (2021年2月)

ここ数年、色々な事が沢山ありました。

引っ越して来てからの長女の不登校、私が病気になり急きょ手術、昨年は長女も急きょ手術。

そして、長男は担任が原因で学校に行けなくなり…。

振り返ると色々ありました。

長男は、気持ちも徐々に落ち着き少しずつ前に進もうとしています。

私も、心と体のバランスを崩しかけそうになりましたが、考えても焦っても自分を追い詰めるだけなので、

「何とかなるさ!」と自分に言い聞かせています。

 

長女は、今年20才になります。長いようであっと言う間でした。

高校を卒業してから、なかなか仕事にもつけず、

メンタルの上がり下がりもあったりと少し大変でした。

時には私と口喧嘩にもなったり。

この先を考えたら不安でお互い仕方なかったです。 

それが、ひょんな事から仕事を探し面接にいったのです。

すぐ、採用が決まり働き始めました。

対人に不安感が人一倍強いので、なかなか踏み出せずにいたのに、

良く頑張って踏み出したと思います。

たとえこの先上手くいかない事があっても、踏み出した事は無駄にはならないと思っています。

 

母に言われた事があります。

「あなたの娘なんだから大丈夫!」

おばあちゃんからの、気が強い遺伝子を母と私と、娘は引き継いでいるから根性はあるかと。

今、母とは遠く離れて暮らしていますが私の一番の理解者です。

この先、色々な事があると思いますが、気の強さと何とかなるさの精神で頑張らずに、

子供達に寄り添っていこうと思います。

 

『未来の会に出会えて良かった』 S.M. (2021年12月)

千歳に住んでいた時からすでに長男は小学校に行き渋りがあり、

行ったり休んだりをずっと繰り返してきた3年間。

次男も影響されたのか小学校1年から不登校気味になりました。

加えて旦那の長年に渡るモラハラにより、私の精神も限界近くまで耐えていましたが、

今年になっていよいよ子どもたちを連れて実家に帰ることを決めて今別居しています。

 

不登校になるということ。周りの人達にはあまり理解されないことの方が多いし、

学校に行くのが「当たり前」という風潮は今もまだ根強いものと思います。

学校の先生でもそういう考え方の方が多いなというのもものすごく感じますし、

特にパートナーが理解を示さなかったり、学校は行くものだという考えが身に染みている人だと、

分かち合えない事の方が多くしんどいものがあります。

もちろん行けるなら行った方がいいというのもあるし分かる半面、

みんながみんなその枠に収まるわけではない。

その枠が窮屈に感じる人もいます。合わない人もいます。

私はこの孤独に近い悩みや辛さを誰かと共有したかった。話したかった。聞いてほしかった。

実家に帰ってきてから未来の会があるのを知り、

1人で抱えて潰れる前に今井さんに電話したのを今でも覚えています。

子どもたちのためというよりは、もしかしたら自分のために参加したのかもしれません。

先に経験されている方のお話を聞くことは視野を広げてくれて、心がゆるむのも感じています。

自分も想いを話すことで気持ちが楽になっていくのを毎回感じています。

 

何が正解かっていうのは今でも分からないし、これでいいのだろうかという迷いも沢山ありますが

同じように経験されてきた方との出会いは、私にとってとても心強いものになっています。

未来の会に参加して本当に良かったです。

いつも優しく迎え入れてくださってありがとうございます。

私が出来ることは、自分を信じることと、子どもたちを信じること。

あれこれ過干渉しない。過指示しない。それと、笑顔で過ごす日を増やすこと。

 

これからもわんぱくっ子二人と共にまた遊びに行きます。

『反 省』A.T. (2021年11月)

 

「学校に行くことだけが正解じゃない」とか「行きたくなければ休めばいい」とか、

大人たちは言うようになったけど、結局話を聞くふりをして

「将来大変だから」「あなたの為だから」と学校に行かそうとする親たち。

「そんなこと自分が一番わかってる!」「何とかしたいと思ってる!」

「話を聞いて欲しい…ふりじゃなくて。」「共感して欲しい…ただそれだけなのに。」

と心で叫ぶ子どもたち。

聞いてるよと大人たちは言う。

それは「ただ音が聞こえているだけの耳があります」と言っているようなもの。

「学校を休み始めた時には、もう体は限界なんだ」と未来の会で教わりました。

そんな大変な状態なんだということも知らず、引きずってでも学校へ行かせてました。

 親が学校と同じ側を向いていては、子どもにとっては地獄でした。

 「学校へ行けば親が安心なんでしょ!」「自分には家にも居場所がない!」

 今でも思い出すあの時の息子の切な過ぎる叫びです。

 変わらなくてはいけなかったのは、子どもではなく親の私でした。

 「どーんと構えていて欲しかった!」あの頃を思い出し息子が言いました。

 肝っ玉かあさんの私だったら。もっと早く気づいていたら。

 息子は楽しく安心して過ごせたのではないか。

 今でもそのことは深く反省しています。

そんな間違いだらけの私に「未来の会」はいつでも温かく声をかけて下さいました。

息子の近況も気にかけて下さり、今また報告できることがとても幸せだと思います。

長い時間をかけて息子は元気になりました。

本当に本当に有難いです。

その子に必要な休息をしっかり取ることが出来たら、必ず動けるようになると私は思います。

先ずは自分の子どもを信じ待ちましょう。

「未来の会」と一緒に。

 

『polepole ni mwendo(ポレポレ 二 ムウェンド)』 A.S. (2021年10月)

スワヒリ語で(ゆっくりは、むしろ歩みが早い)という意味のことわざで       

私がいつも心の中で大切にしている言葉です。           

次男が学校へ行けなくなったのは小学3年生の時。

3歳からひらがなを読み、小学2年で漢字だらけの市民憲章をスラスラと読んで母を驚かせた次男。

ところが冬休みの宿題は、もうとっくに読める同じ漢字の反復練習。

1番最後のページをスラスラ解いてあとは興味が持てない次男でしたが、

一緒にゲーム感覚でタイムを計って何とか持って行った宿題。

ところが手直しするよう付箋だらけで帰って来た宿題。

ポロポロと涙を流し「もうできない」と訴える次男を見ていて、発達障害と言う言葉が浮かびました。

すぐスマホで検索して見せたら「僕、これだと思う」と即答。

「やっぱりか…ごめんね…」「今まですごく辛かったでしょう。気付くのが遅くなってごめんね」

謝る母に「分かってくれたらもういいよ」と笑った次男。

市の健診でアスペルガーの気質があると言っても毎回、否定されて来た。

保育園や学校で相談しても大丈夫と言われ続けた。

我が子は本来の自分を押し込めてずっと我慢して来たのだ。 

この日から学校には行かなくていい、勉強は私が教えるとエジソンの母の真似事をした。

でもいつのまにか自分が過呼吸になっていた。

責任を感じ自分が頑張らなきゃとストレスを貯め込んでいた事に気付いた。

漢字が書けないとだめ? いや今はパソコンでメールの時代。

因数分解できなきゃだめ? 必死に覚えた母もとっくに忘れている。(笑)

学校に行かなくなり、自分の睡眠ペースで自分の好きな事に没頭するようになった次男は

いっきに身体が大きく成長した。

興味のある事はYouTubeで勉強しニュースも私より早く理解して教えてくれる。

好きなゲームや音楽、映画、親子の会話も増えた。

食べる事も寝る事も忘れ、好きな事に没頭している姿を見ると

親として正直、不安になる事もある…でも大丈夫。

 

進級の度に担任の先生が変わった。

毎年同じ話をして理解を求めたが理解してくれる先生もいれば、

なかなか理解してもらえず泣いた事もあった…でも大丈夫。

中学2年になった今、英語で海外の人とチャットしたり多言語を学ぼうとしている次男。

プログラミングや動画編集など好きな事に集中している時は、辛い事も多いけど楽しそうだ。

凡人の私にはとても真似できない才能だと心から思う。

君はそのままでいい。

好きな事だけで生きていけるのか。不安が無いと言えば嘘になるけど、きっと大丈夫。

 

私は学校から帰って来た我が子に

「おかえり」と手作りパンやおやつを出せる母親になりたかった。

でも今は仕事に追われ「手抜きごはんでごめん」と出す母親になっている。

理想と現実は違うけど幸せである。

今夜も疲れてソファで寝落ち。

そっと毛布をかけ私のスマホを充電器につけ電気を消してリビングを出て行く次男。

「ありがとう」その優しさがあれば君は大丈夫。生きて行ける。

そう思いながら今宵も深い眠りに落ちる…。

自分の人生も次男の人生もゆっくりゆっくりでいい。

今日が必ず明日に繋がる。無理をせず毎日を笑って楽しもうと思う。 byポレポレ

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 『不登校でよかった』 H.M (2021年9月)

 

未来の会との出会いは、現在19歳の娘が中学2年生の時でした。
2年生の夏頃から行き渋りや、朝になると具合が悪くなり、玄関で動けなくなる事がありました。
学校で嫌な事があると聞いてはいましたが、休みながらも頑張って学校には通っていました。
9月末のある日、学校から娘が過呼吸になり「転校する」と大泣きしていると連絡があり迎えに行きました。
「もう限界なんだ」とその時思いました。


家に帰って来た娘は、2年生になって間もなくクラスの男の子数名からイジメられていた事、

「学校にはもう絶対に行かない」と伝えて来ました。
「まさか我が子が不登校になるなんて」「これからどうしたらいいんだろう」

先の見えない不安に押しつぶされそうでした。
食欲もなくなり、部屋にひきこもり、外にも出られなくなり、夜中に部屋で泣いている事も度々でした。
「娘とどうやって向きあっていったらいいんだろう」そう悩んでいた頃、

市の広報誌で未来の会の案内を見かけました。
思い切って夜の例会に参加する様になりました。


例会に参加するたびに自分の気持ちと向きあう事が出来、気持ちの整理も出来る様になると、

新たな気持ちで娘と向きあう事が出来ました。
中学3年生になる頃、自分で行きたい高校を見つけた娘は、自ら進んで動き始めました。
無事に合格し、高校の3年間は全寮制の美術・工芸の専門の高校で学びました。


この4月、娘は京都の4年生の伝統工芸の専門学校に進学し、一人暮らしを始めました。
小さい頃から感受性が強く、人間関係でも人一倍敏感に反応してしまう所があったのですが、

高校3年間の寮生活で、適当な人との距離の取り方と上手な手の抜き方を覚えた様です。
高校を卒業する時、娘が初めて、

「不登校になって良かった。あの時じっくりと自分と向きあい考える時間があったから、今の自分がある。」

と話してくれました。
母として何より嬉しい言葉です。

 

 

『困っているんだけど困っている様に見えない』T.M.(2021年9月)

 

幼稚園始まって以来の問題児と言われた息子は早いもので33歳。
3年前、広汎性発達障害という診断が出たと同時に一人暮らしを始めました。

自宅に居たときは、夜中にオンラインゲームで騒ぐので家族は毎晩眠れない。

寝れないので静かにして欲しいと伝えても、

返ってくる言葉は「どうして寝れないのかわからない。寝たければ勝手に寝ればいいでしょう。」と

意味不明の返答が返ってくる。
そして本人寝不足なので遅刻か欠勤。

財布は落とすから、財布は持たない主義。
鍵をかけない自転車がよく盗難にあうので、自転車は持たない主義。
ワクチンは打たない。
何故打たないのかと尋ねると引きこもりでコロナに罹るわけがない。
「お店に買い物に行ったり一人で外食するときは?」と尋ねると、
「その時は死んでも仕方ない。自分はもう十分人生楽しんだから。」と返ってくる。

 夜中騒ぐと家族に迷惑をかけてしまうとか
 財布は落とさないように気を付けようとか
 自転車は盗られないように鍵をきちっと掛けようとか
 ワクチンも一応打っておいたほうが安心かな

とかという判断は彼にはない。

見た目には障害があるようには見られないが、一事が万事こんな調子なので、

なかなか一般企業で働く事は難しい。

しかし診断後は本人が怠けて出来ないのではなく、

脳の特性で本人にも困難を生じているのだと理解することが出来、

長い事悩んでいた事に終止符が打たれた様な気がする。

診断を受けて、今まで困っていないように見えていた息子が

実は滅茶苦茶生きる事に困っていて、一人で藻掻き苦しんでいた事に気が付くことも出来た。
理解出来なかった返答も、彼なりの生きる為の防御法だったのだろう。

つい先日久しぶりに息子が我が家に立ち寄った時、

二階の自分の部屋に入ると昔の辛かった事を思い出し、

部屋に入るのが嫌だったと話してくれた。

一人暮らしを始めて生きていて良かったと言う息子だが、

まだまだ心の傷が回復するには時間が必要だと感じている。
そして親も回復が必要なので、今後も未来の会に参加していこうと思っています。

物理的に良い距離を保ちながら、お互いの生活を大切にし生きていければと思っています。
 

 

『放置する母』T.A.(2021年8月)

 

これは決してふざけたタイトルではなくて、8月号のエッセイを頼まれた時、すぐ思い出したことがありました。

それは去年の6月から度々、極度の貧血(起立性調節障害)のため登校できずにいた息子(10歳)ですが…

2020年8月1日の朝、息子が「俺もう学校諦めた。行かない」とハッキリ宣言した日でした。

本当に昨年度はその後1日も登校しませんでした。

担任にも会いたがらず、学校を連想させる物(鉛筆、消しゴム、ノート、教科書)は押し入れへ本人が隠しました。

そうなると私はなんで?どうして? 我が子がまさかのあの不登校に? それ以降私はもがき苦しみ、

昼夜逆転、暴言、暴力、壁に穴、ゲーム三昧の息子に理解できず悩みまくり、

色々調べたり、未来の会さんにも話を聞いていただきました…。感謝です!

そんな時、息子が歯に黒い点があって痛いから、歯医者に見てもらいたい予約してと言ってきました。

内心、私があれだけ毎日「歯磨いた?」って聞いてたのに磨かないから…。とイラッとした瞬間に

「ん? 私の歯じゃないよね? 困らないよね?」

「あの子が虫歯になろうと爪が伸びようと入浴しないで臭くなろうと汚部屋だろうと私は困らない」

「あの子の人生だから私は何一つ困らない」なのにいちいちイライラする。

これは私が勝手にストレスを作り上げている?なんか胃痛がする。嫌だー!!

 

そうなんです!私、イチイチ気にするのを止めました。もう放置です。

何も言わないで母業辞めてみました。

最初、旦那がビックリしていましたが「私はもう好きなことしかしません」と

今度は私が家族にハッキリ宣言しました。

毎日、猫達とダラダラする、スマホ三昧、マスク、パン、ケーキを作る日々、

自分の食べたい物しか作りませんでした。

 

すると、息子が自分で自分のことをし始めました。

食べ物を自ら電子レンジでチンしたり、インスタントラーメンを作って食べたり、

担任に登校できる日は自ら電話したり、

約束したのに行けない時は担任に「体調が悪くて行けません」と電話越しに話しているのです。

そして自宅のパソコンからオンライン上で授業を受けられる科目に参加しているのです。

運動会の練習にも行きました。(当日は体調不良で行けず)

 

あぁ、私は今まで過干渉だったんだなぁ。

息子が自分の人生を自ら選択して生きていくように育てていなかったなぁ。

つい将来を心配して先回りして都合の良いように指示していたんだなぁと気がついたのです。

 

今、私は息子に食事と洗濯しかしていません。

ちなみに主人は7人兄弟の中で育てられたのでイチイチ細かいことは気にしない。

出来ることは自分でやる。その方が合っていると言います。

え、今更?と思いましたが、マイペースな性格だから、きっと私がいなくても彼は生きていけます。

新たに家族3人の不思議な生活スタイルを始めています。

それぞれが独立しながらも夕食時は会話が弾みます。

この良い意味での放置は我が家にマッチしているのかもしれません。

 

息子は相変わらず、昼夜逆転したりしなかったり、

クラスの子達と庭で水遊びしたり、勉強すると言いながら全くしないし、

小遣いで駄菓子を買いに行ったり、猫にリードをつけ散歩したり気ままに過ごしています。

今、私は我が子が不登校にならなければ気づかなかったことを色々実感しています。

この先どうなるかわかりませんがさほど気にしていません。

根が真面目な子だから心配無用、信じています。

 

最近、不登校って家族を再構築する素晴らしいことかも…なんて勝手に思っています。

学校だけが全てではないことも確信しました。

と書いている最中、

息子が「歯が3本ぐらついてる。大人の歯かもしれないから(歯医者)予約して」と言ってきました。

見るからに全て乳歯なんですけど…歯医者さんに見てもらいます。

 

 

「なかったことにさせない 未来がよくなるための闘い」-K- (2021年7月)

 

5月10日、私の銀行口座に災害給付金にかかわる医療費が振り込まれた。

その通知が教育委員会からきたのは4月下旬。

見る人が見れば、それはただの紙切れ一枚なのかもしれない。

しかし私にとっては、中学校との4年間の闘いの証である。

 

皆さんは、災害給付金というシステムを知っているだろうか。

簡単に言うと、学校でけがをしたときに治療費がでるものである。

体育でけがをしたときに治療費が出るやつといえば、わかりやすいかもしれない。

(詳しく知りたい方は、日本スポーツ振興センターのHPをご覧ください。

また、就学しているお子さんがいる方は学校から資料が配られているかなと思います。)
 

この災害給付金、精神的な負担が継続的に加わったことにより発症したと認められる

心因反応などの疾患も対象となっている。

ここにいう「精神的な負担が継続的に加わった」とは、精神的な苦痛をもたらすような行為が

継続的に行われた場合をいう。
 例えば、いじめ、体罰等を給付の対象とする。

(引用 日本スポーツ振興センターのHP

    独立行政法人スポーツ振興センター 災害共済給付の基準に関する規定より)

この情報は、医師が教えてくれた。

「認められるのは厳しいけど、こういうものもあるよ。

体罰について認められないとしても、話し合うことができる。

お金の問題じゃないよね(文責k)」と。

そうなのだ。治療費を出してほしいということではないのだ。

息子が中学校一年生のときに体罰があった。

当時の校長からは、

「教師がしたことは体罰ではない。不適切な指導だ。体罰調査に書いても認められない。

もし体罰調査に出すのであれば、具体的にお子さんに事情も聴かなくてはならなくなる。」

と説明があった。

実際に目に見えるけがをしていないからであろう。

当時は、「どうせなら、けがになればいい。そうすれば、担任を罰することができる。」とまで思っていた。

今でも、その思いがなくなったかと問われれば、なくなったと答える自信はまだない。

 

しかし、そのおかげで大切なわが子は適応障害となった。

学びたくても学べなくなったのだ。やはり、教師の行為は体罰としか思えない。

なかったことにしてほしくない。認めてほしいだけなのだ。

私は、医師が教えてくれた武器で中学校と闘うことに決めた。

 

その武器を手に入れたのは、息子が中2のとき。

そのときは、管理職も変わっていた。

息子が体罰を受けたときはいなかったのにもかかわらず、

校長先生も教頭先生も長い時間、私の話を聴いて寄り添ってくれた。

そして、私の願い通りに、スポーツ共済に申請してくれたのである。

そして、何度も何度も日本スポーツ振興センターとやり取りをしていただいた。

申請してから約2年経って認められた。

体罰について中学校のやり取りから数えると4年間である。

 

けがと違って心は見えない。

だから、先生の対応が悪いのにもかかわらず、様々な子どもの表現を、

子どもや親のせいにされて悔しい思いをしている、または、してきた方は多いのではないだろうか。

だからこそ、今回認められたことは、大きな意味がある。

いや、大きな意味にしていかなければならない。

教師からの精神的な苦痛も体罰なのである。

教師は、この事実を知り、肝に銘じて教育活動をしていただきたい。

 

私は、中学校に新しく赴任してきた管理職に恵まれたから、申請もできた。そして認められた。

しかし、申請を出すということは、学校で体罰があったことを認めることになる。

だから、残念ながら、なんだかんだいって申請すら認められないケースのほうが多いそうだ。

 

中学校と闘うなんてしたかったわけじゃない。

「事実は事実として認めてほしかった。なかったことにしないでほしかった。」

それだけだ。

 「元気に学校に行って、いろいろ学んでほしい。」

それだけなのだ。

 

まずは、安心して過ごせる学校がある。

それから、学校に行って学ぶか、それ以外の方法で学ぶのかを自己決定していければよいと思う。

 

このエッセイが、学校や教師の意識を変える一つの種になることを願っている。

『私達の〝今〝を過ごす』母K  (2021年6月)
小6の息子。昨年から、自ら料理にトライ!
先日、大手スーパーの調理器具コーナーに立ち寄ると、
背筋を伸ばし眼を輝かせて "欲しいものが沢山あるな〜" と品定め。
100円ショップにも行き、器具を比較して、使い勝手をイメージ。
結局、スクエアの中皿を購入。
"レストランみたいに、メインディッシュに使うよ"と。
迷っていた木製サラダボウルは次回に。
次は、ゲーセン。
ここでも一台一台品定め。
景品が手に入る台に挑戦し、2台程遊ぶとすんなり退散。
ゲームの腕はなかなかのもの。
あれだけお金かけてたから、上手くなった(笑)。
今は、小遣いがもったいなくて、少額で、単時間に、効率良く遊ぶ。
そうそう、のめり込んで課金していたオンラインゲームは今は全く興味なし。
"課金しなくても強いさ" って。
やり切ったかな。
そして、親子デート。
歯科受診の帰り道は、いつも狸小路をブラリ散歩。
腕を組んで、お喋りしながらフラフラする。
ふと、同じ様に、私は、高校生の頃、女友達と腕を組んで歩きながら、
お喋りした事を思い出す。
小路では、時々人混みを避けて、遅めのランチも。
ゆっくり歩くと、多種多様なお店、人間ウォッチング。
不登校ならではの時間の流れと心地良さ。
先を見ず、後を振り返らず、目的無く、その時の気分で、その気分を味わって。
それが私達のナウイズム…。
 
『自分の経験は未来への種まき』  K.S.​(2021年5月)

私のお仕事は、小学校教諭。特別支援にかかわる研修を担当していました。
その研修で使用した資料です。
3年間未来の会で、いろいろな話をしましたそのおかげで前に進む力をもらいました。
今は、自分が不登校母の経験を発信していくことで、
先生方にリアルな姿を知っていただき、これからの教育に生かしてほしいと願っています。
学校現場にいるからできることをしていきます。

 

❀ 特別支援ミニ情報 中学校不登校&発達障害の高校生を育ててみて ❀


〇「友達が思春期外来に行ったら親がやさしくなったから、連れて行って」
不登校2年目の中3夏になってから言った言葉。

適応指導教室のお友達の話から自分も行ってみたいなと思った様子。

あと半年で卒業なので、自分でも何かのきっかけがほしかったのではないか。


〇「みんな、あれが読めるんだね。」
千歳市民病院の小児科を不登校親の会で勧められ受診。

問診後、ひらがなの読みのテストをする。

6年生でスラスラ読める内容だが、半分も読めない。しかも、間違いも多い。

おそらく学習障害の可能性が高いから、北大病院受診をすることになる。

母は、きっと起立性障害かな~と軽く考えていたので、

まさかの発達障害の指摘に号泣、号泣。

北大病院の予約を待っているときも、

会計を待っているときも周りに人がいるけど、涙が止まらない。

息子は、「へ~、みんなあれが読めるんだ~。

仰天ニュース見たとき、似てる人がいるなとは思っていたけどね~」と軽い。


〇北大受診 先生と楽しくおしゃべりしながら、自分の生活を振り返り肯定してもらう
問診(1回目は、医大生がずらっと)、検査、診断、今後の対応、診察・投薬という流れ。

診断が出た結果、学習が大変だったのは怠けていたわけではないということがわかり

本人元気を取り戻すきっかけになった。
受診では、

「自分が思ったより、気合が入って周りを楽しませようとしすぎちゃうから、

疲れてたくさん休まなきゃいけないんだね。

少しずつ今の自分テンション上がっているなと気が付けるようになるといいよ」等

メタ認知・テンションコントロール、

また、「週一回でも高校卒業できるから、自分のペースで大丈夫、

いろいろな道があるから、安心して」と息子に話している。

病院嫌いの息子も思春期外来受診は楽しみにしている。

否定されず、笑顔で受け入れてもらえる場は母にとってもありがたく、

「週3回ですら学校に通えない。高校に行ったら気持ち切り替えていけると思っていた」

と悩み相談をしたら

「疲れすぎちゃたんだね。高校卒業できるし大丈夫。」と励ましてくれる。

確かに中学校では足が動かないと言っていたことを思えば、週1回でもすごいのよねと元気になる。


〇「小学校は学校に行かなきゃいけないと思っていた。中学校はいかなくてもいいと思った。

高校はやっぱり将来を考えると学校に行ったほうがいいと思うんだよね。」
 時間はかかりましたが、少しずつ学校に対して前向き発言が出てきました。

子どもを信じて待つのはとっても難しいことですが、それしかないのだと思います。 

 

 

ひきこもり20周年特別企画前編「ひきこもり脱却を妨害するモノ」』 珍珠奶茶 (2021年4月)

 

ひきこもり脱却を妨害する要因は人それぞれで挙げれば切りが無いが、

後編では現代の日本で特に大きな要因だと思われるものについて、自身の体験を元に記そうと思う。
 

普段、日中は人目が気になるためあまり外出することが無い。

夜、家に食べるものが無くてお腹が空いてどうしようもない時は

遅くまで開いている近所のドラッグストアーにカップ麺を買いに行くことがある。
数年前から夜出掛ける際、もしくは帰って来た際に、

近所のとある住人と家の前で度々鉢合わせになってすれ違うようになった。

すれ違う度にジロジロと凝視されて、変な目で見られているような気配を感じていた。

特に何か危害を加えてくる訳でもないので、

単なる被害妄想だと思うようにしてその場をやり過ごしていた。
 

しかし…単なる被害妄想ではなかったことが判明する出来事があった。

ある日の夜11時頃、買い物から帰って来て家の前にいると運悪く、また例の住人と鉢合わせになった。

しかし、その日はいつもと様子が違った。

いつもに増して執拗にこちらを睨み付けているように感じた。

敵意を剥き出しにしてこちらを威嚇しているような感じだった。

その直後、その住人から不審者扱いされて警察に通報され、

パトカーが4台も出動する騒ぎになった。

ひきこもり当事者が夜に外にいただけで、犯罪者扱いされて警察に通報されてしまう。

これが現代の日本の現実である。
 

人口7万の市としては規模の小さいこの恵庭で、現に私がこの様な差別、偏見を受けている訳だから

もっと規模の大きな都市に居住しているひきこもり当事者は、

更に酷い差別、偏見を受けている可能性があるということは容易に想像がつく。
 

ひきこもり=犯罪者と決めつけるような差別、偏見は一体どこから来たのであろうか?
歴史を遡ると、1988~89年に起きた殺人事件に端を発しているようだ。

その後も2000年の西鉄バスジャック事件、

同じく2000年に発覚した新潟少女監禁事件など

マスコミが大々的にひきこもりと関連付けて事件を報道してきたことが、

ひきこもり当事者に対する差別、偏見を生む結果となっている。

また、2019年に立て続けに起きた2件の殺人事件が、

ひきこもり当事者に対する差別、偏見に更に拍車をかけることになった。
 

しかし、ひきこもり当事者の犯罪率が高いということを裏付ける、科学的根拠やデータは一切無い。

反対にひきこもり当事者の犯罪率は、そうでない人に比べて低いという主張をしている人すらいる。

とにかくこの様なひきこもり当事者に対する差別、偏見が横行している世の中では

ひきこもり脱却どころか家の外に一歩踏み出すことすらできない。

 

ひきこもり20周年特別企画前編「四半世紀前の死の恐怖」』 珍珠奶茶 (2021年3月) 
 

これを読んでいる皆さんの中で、

本気で殺されるかも知れないという死の恐怖を味わったことのある人は、どのくらいいるだろうか?
この3月でひきこもり状態になってから、とうとう丸20年が経過してしまった。

小中学生時代の酷いいじめのせいで人が恐ろしくなり、

今も尚なかなか外出することが出来ない。

今回は今まであまり公にしてこなかった中学生時代のいじめ体験を記そうと思う。
 

中学2年生のある日、いじめグループから2階の男子トイレに呼び出された。

無視をすると何をされるかわからないので、とりあえず命令に従ってトイレに行った。

そこには私以外にもう1人、同じクラスの男子でいじめに遭っていたS君もいた。

私同様呼び出されたようだ。


突然、いじめグループの1人が窓を勢いよく開けて全開にした。

私とS君は一体何が始まるのだろうとビクビク怯えていた。

いじめグループの4人が、ニヤニヤ不気味な笑みを浮かべながらS君に近付いたと思うと

無理矢理窓のほうへ引っ張って行った。

次の瞬間、嫌がってジタバタするS君を嘲笑いながら

4人がかりで2階の窓からS君を突き落とした。
 

悪魔のような不気味な笑みを浮かべた4人が、私のほうに向かって来た。

次は私が突き落とされる番だ。生まれて初めて本気で殺されると思った。

その瞬間私は頭の中でとっさに考えた。

抵抗すれば後で何かしらの報復を受けることは間違いない。

しかし、突き落とされて殺されてしまえばそれで一巻の終わりである。

報復と自分の命を天秤にかけた時、当然ながら命が大事だと思った。

とにかく死に物狂いで一目散にその場から走って逃げ出した。

4人は私が逃げるとは思っていなかったようで、追いかけてまでは来なかった。

これが私が経験した四半世紀前の死の恐怖である。

今でも昨日のことのように鮮明に記憶に残っている。


報復はというと…その後も色々ないじめを受けていたので

一体どれが逃げたことに対する報復かはわからない。

そして突き落とされたS君は…無事であった。

当時は冬で窓の下には雪が積もっており、両脚から雪の中にはまったそうだ。

しかし、たとえ雪があったとしても頭から落下して頸椎を損傷した場合、

最悪首から下が麻痺して全く動かなくなる、重度身体障がい者になっていた可能性も十分考えられる。

想像しただけで悍ましい。
 

最近はいじめに対する学校の対応も以前に比べて少しはましになったようだが、

私が学生だった頃は、学校がいじめの事実をひたすら隠蔽しようとしていた。

私には2歳年下の弟がいるのだが、彼も酷いいじめに遭ったせいで中学2年生で不登校になった。
 

ある日、相当酷いことをされ母が怒って担任の教師にいじめ被害の報告をしたのだが…。
「単なる子供同士の喧嘩だ」の一言で片づけられ、

全く聞く耳を持とうとすらしなかった。
そもそも「いじめ」と「喧嘩」は完全に異質なものだが

その区別すらつかない人間が教師をする資格は無い。

加害者の犯人側が

「遊んでるつもりだった。」「ふざけていただけでいじめているつもりは無かった。」

などと言い訳を並べれば、

学校側は加害者の肩を持ち、絶対にいじめと認めようとはしなかった。
 

なぜか最近その構図とリンクして重なって見えることがある。

何のことかというと官僚が違法な接待を受けていた「贈収賄事件」だ。

利害関係のある特定の放送事業者や電話会社に対して、

便宜を図る見返りに高額の接待を受けていたという、何ともわかり易い汚職事件である。

収賄を行った官僚らは国会の答弁で

「知らなかった。」「そんなつもりは無かった。」などと嘘八百のオンパレード。

やっぱり、いじめの加害者が言い訳をする構図と全く同じである。
                               後編へ続く…

 

『息子のペースで』 Y (2021年2月) 
 

1年前の冬に不登校から高校中退。
その後昼夜逆転&スマホ三昧の毎日。この時代に中卒とか!
いきなり真っ暗闇の先が見えない息子の生活が始まりました。


地元紙で見つけた「未来の会」を訪ねて、皆さんに話を聴いてもらい、
先輩保護者の皆様のお話を伺い落ち着くことが出来ました。
空いてる時間はネットの不登校児対応など調べまくった私。
でも学校は辞めたしこれからは息子のペースで進んでいこう、
息子の話を聴こうと腹をくくりました。


2か月間のお籠り生活を経て、自分でバイトを探して初バイトスタート、
いきなり社会人!? 
仕事をしてお金を得る大変さを約6か月間学びながら、
本人は高卒資格のことも考え、昨年の夏に再度高校1年生としてスタートしました。
この間も息子の言動に一喜一憂するブレブレの私(汗)。
腹は簡単にくくれないです。。


高校生になった今は、家を離れての寮生活。
「もうやめたい(泣)」まさかの二度目の中退危機! もありましたが、
本人に任せて (担任の先生にも助けを求めましたが。。。)ドンと構えていたら
(本当は心臓バクバク冷汗タラリですが)、
今では私の連絡は既読スルーするほど学校生活が楽しい様子。
先程「週末は予定びっしりだから春休みまで帰らないわ~」と連絡が。。。 
前籍高では無かった充実ぶりで「中退でも大丈夫、その先も自分次第」
と息子に教えられたのでした。


息子のペースでこれからも歩んでくれればと願っています。
が、出来れば高校卒業してほしいな~と欲も捨てられない私です。

 

『ある日の親子の会話から…』 母 K (2021年1月)

いじめから不登校になり三年が経ち、息子は10歳、小学5年生。


息子:ママ、僕、大人になって、引きこもりかもしれないよっ。結婚もしてないかも〜。
母 :いいよー、ママとパパの側にいてくれたら、助かると思うよー。
息子:働かざる者食うべからず〜。
母 :ママが働くから。美味しい夕飯作って待ってて〜。除雪もー。
息子:確かに、帰る事が楽しみになるよねー。でも、部屋に引きこもっていたらどうしよう…。
   うーんと、やっぱり、何処かのレストランに修行に行こうかな〜。
   僕は、キャンピングカーで旅行したいなー。

        僕の奥さんは、車の運転ができる人が、いいなー。
母 :みんなで交代で運転だね。
息子:うん、僕は、後のテーブル席でゆったりしてみた〜い。

私は、最近、除雪で、手首や膝を痛め通院中。
息子は、たまに、除雪をしてくれたり、料理を作ってくれます。
私が居間でゴロゴロしていると、代わりに、こまごまと動いて助けてくれます。
身体が弱っているので、息子の存在がより有り難く、感謝の気持ちです。
…弱って、改めて気が付くのでしたぁ。

不登校になる以前、いじめが始まる前は、イベント好きで、

元気に楽しそうに学校に行っていました。
担任に相談しても解決するどころかエスカレート。
登校できない息子は、訪問に来た担任から、頭ごなしに叱られ、次第に心身症状が出て…。
(詳しくはまた次回に)
息子は、家では楽しそうに笑って、喋っていますが、
学校はもとより、将来の事まで心配しているのでした。
息子が生まれた時の、息子への初めてのメッセージカードには…。
…どんな事があっても、パパとママは、いつでも、貴方の味方だよ…。
それはこれからも変わりません。

 

 

『母だって不登校になりたかった』T.A.(2020年12月)

今回、記事を書く話をいただきました。

が、定例会に3回しか参加しておらず、息子(10歳)は不登校歴4ヶ月の新参者。

当然まだ毎日、母子間がギクシャクしていて、何書こう…。

と思っていたら、つけっぱなしのテレビから、

ふとマツコデラックスさんの発言が聞こえてきた。

 

〝小学校5年生の時、一時不登校だったのよ。

で、なんで行ってなかったかっていうと、つまんないから行ってなかったの。

朝早く行かされて、やりたくない勉強やって、食いたくない給食食って、

話したくない友達と話して、で又同じ道帰るってのを、

毎日繰り返していることがアホらしくなったの″


あ、わかる! 私もそう思ってた!!

ただ、鬼のような母が怖くて不登校になれなかったんだ…。
えっ!? と自分に驚く。
思い出した! 私、学校が嫌いだった。特に土臭い春の匂いがする4月…。

入学式、始業日はこれからまた新しいクラスの皆と知らない担任の中で、

どうでも良い生活が始まるんだ…と思ったら嫌で嫌でたまらなかった。

自分で言うのも変だけど、口うるさい母の為に習い事、勉強、

何でも〝そつなくこなしてきた″私はそんな母から育てられたので、

子供に同じことをしていました。
 

こうして欲しい、あぁして欲しい、あれもできてない、これもできていないって、

思えば思うほど、子どもは親の言うとおりにしたくないものです。

だって私がそうでしたから…。高校でしっかり爆発して、叔母の家から通学しました(笑)。
ゲームばかりで昼夜逆転しないでよ。勉強しようよ。暴言吐かないでよ。

寝起きにコーラとお菓子じゃなくてご飯ちゃんと食べようよ。

たまには外に出てみようよ。食事ぐらいは部屋から出て食べようよ。
こんなこと言われたら、もともと性格が優しくて、頑張り屋で真面目な息子…。

そりゃー崩れるわ。
 

だから改心しました。

あの時、学校へ行きたくなくてたまらなかった私は母から何をして欲しかった? 

ただ話を聞いて欲しかった。

悪いことしないから何でも肯定して欲しかった。守って欲しかった。
だから、主人のように〝うちの子は大丈夫!″と子供に聞こえるよう言い続けたい、

私が不安なときほど…(汗)。
                                       

 

『ダメ母のぼやき2 リターンズ 』(2020年11月)ダメ☆ハハ


前回寄稿させて頂いた時より、現在。

不登校だった息子は己で選んだ高校に進み、ネットの通信制高校1年生になりました。

とにかくどこだろうが、もう中学校は嫌だ。その宣言通り2年間ずうっと家に居続け、

学校には二度と足を向けることなく当然のように卒業式も参加せず、中学を終えました。
母としては、不登校でも友達となら外出し遊んだりはしていましたので、今まで家に引き籠もっていた分、

高校ではまた友達を作って今度こそ楽しい学校生活を経験できればいいなあ。

なんて考えていました。

ネットの高校。それって何も変わらないやんけ~とツッコミたくなりましたが、

本人が希望し行動を起こしたので一切口は出しませんでした。


その後コロナ禍が起こり世の中の価値観がひっくり返るような状況が訪れ、

私自身こうなるともうどう在る事が幸せか分かんないな、なんて感じたりしてました。

息子よ。君最先端なんじゃね?と良い様に捉えてみたり。

実際、当の本人はどこ吹く風で今までと変わらぬ毎日を送っていました。

スクーリング中止になったりはしてますが、ネットの学校の強みか。

課題などはあり、それは常にきちんと提出しているようです。
喜ぶべき状況なのだろう。しかし…私は参った。弱った。とっても困りました。

同じ空間にいると引き籠り状態の息子を意識しないわけにいかない。

加えて反抗期。コミュニケーションが全く取れないから得体がしれない。

そして悪さではないのだけれど…こちらにとっては時々頭の痛くなる厄介事を起こしてくるのです。

救急車騒動とか坊主騒動とか。毎回心臓バクバクでしんどい思いをする。

いつか笑い話になるんだろうか。

会ではお話しましたが長くなるのでここでは省きます。

そんな中では先のこと、それもネガティブなことばかり考えてしまう。
 

私は不登校が始まった頃から趣味を増やしたりし、あまり家にいないようにしていました。

これが一番お互いのために良かった。

夫にはよく遅咲き不良妻などと言われていましたが、なんとでも言うがよい。

どうせダメ母ですんで。と開き直っていました。

私の精神衛生上にはどうしても必要なことでした。

それが外出禁止により何一つ出来なくなった。ほんときつかったあ。
今まで学校や教育関連の所に相談やらそれこそ沢山足を運びましたが、

精神的に追い詰められ心えぐられる事はあっても役に立ったことは何一つありませんでした。

最も救われたのは未来の会で話を聞いたり聞いてもらったこと。

経験者にしか理解してもらえず、受け入れられないことは多い。

誰にも話が出来ない期間、苦しかったです。

場や縁があったのはとてもありがたく感謝しかない。これからもどうか宜しくお願い致します。


あとは今もですけど、子供とは別行動(ここ大事)で楽しめることを増やしています。

つい先日は鬼滅の刃というアニメ映画を観に行ったんですけどね。

ステマではないすよ。すごく良かったんです。もうタオル&マスクがビチョ濡れになるほど大泣き。

泣くって心がデトックスされるらしいですね。とても清々しい気持ちになりました。

恥ずかしさはあったけど勇気出して行ってみて本当によかったわ。

でもね。SNSではいい年して鬼滅?きっつ。なんて言われたりもしたのですよ。

ま、どこの馬の骨とも知れぬ奴に何言われたとてどうでもいいすわ。

この2年間でこういう事はイヤというほど慣れました。
親だろうが人間です。誰かに迷惑かけることでなければ何を楽しんだっていい。

明日をやり過ごす力になる。それがダメというならダメ人間で私は結構ざんす~。 
                                     

 

 

『月夜に目覚めし魂は』(2020年10月) 妖怪Mより


元引きこもりの私。最近また家に引きこもり始めている。

昼夜逆転を始めたからだ。

そう、私は現在、自ら好んで (いる訳でもないが) 昼夜逆転生活をしている。
一体なんでそんなことを…と思われるかもしれない。

しかし、クリエイティブな経験をしたことがある人ならわかるはずだ。

それは…夜中は作業が捗るからだ!!
 

描く事が仕事になった私だが、どうも昼間起きている生活をしていても、

体や心は健康的になるが、さっぱり作品を生み出せない。

まずやる気が起きないのだ。机にすら向かえない。
この現象はなんなのか、そう思ったとき、真っ先にスマホが浮かんだ。

昼間は通知が多すぎる!メールやLINE、その他SNSやアプリのお知らせまで、

色々気を散らされる要素がいっぱいだ。

そして一回スマホをいじいじし出すと止まらない。とんだ誘惑だ。楽しすぎる。

それは本当にいけない。いけないのだ。
 

そしてもうひとつ、窓から差し込む光! そして目に飛び込む景色!

これもいけない。外の爽やかな様子を見ると、

玄関から勢い良く飛び出しリズミカルに弾ませたスキップで爆走したくなってしまう。

とにかく爽やかさというのは気が散る大変な要素だ。

いい天気に心も外出を促される。だが心乱されてはいけないのだ! 

爽やかさというのは私にとって害!悪!である。本当にけしからん!


夜ならじっと静かに作業出来る。外も暗いので外出する訳にもいかない。

周りも皆寝静まる。スマホも大人しくなる。

SNSも各々の更新が止まっているからつまらない。そう、描くしかなくなる。
きっとこの生活を続けていたら、そのうち私はおかしくなるだろう。

だけれど、多分描く為に自分は産まれてきたのだ。

身体を、精神を、命を削って描くしかない。

そういう星の下に生まれてしまったのだ。しょうがない。

ああ、私の魂が擦りきれていくよ…。

でも、作品を生み出すこと、それは何よりの悦びなのだ。

天気のいい空、爽やかな空気、揺れる木々、それが何だってんだ!

へーーーーんだ!ぷーーーーんだ!
私の創作を理解し、見守ってくれる両親に感謝。

今宵も月が昇る頃、ひっそりと起き出し、人知れずペンを走らせることでしょう…。

 

『我が子の十回忌をむかえて』(2020年9月)武山文則

 

9月1日は二男の命日で、家内と長男と私と3人、帯広の納骨堂に行き手をあわせて来ました。
二男は千歳の小学校を卒業後、私の転勤に伴い恵庭市に越してきて中学生になりました。

二男に対するいじめは新学期すぐ始まったようです。

私は二男が中学時代に受けたいじめの一端を、二男の大卒後に聞かされました。

二男は高校生時代にうつ病を発症し、療養を続けつつ大学生としても努力し、

社会福祉士の国家試験にも現役で合格し、希望に満ちて福祉への道を志していましたが、

大卒後23歳で自死しました。
 

教育大でいじめを専門的に研究しておられる先生に伺った話です。
加害者は一人とは限らず、通常いじめのリーダー格がいて、

クラスの大勢や時には上級生も加わり集団でいじめる場合が多いとのこと。

加害者側にとっていじめの理由は何でも良く、標的にされたが最後、

強いからいじめられないとは限りません。

陰湿ないじめは始まったが最後、被害者単独では回避できないことも多く、

被害者が倒れるまで続く場合が殆どとのこと。

いじめの最中には見張り役もいて先生が来ると手のひらを返し実態を隠蔽するので、

学校側は事実を把握できません。
この先生には、夫婦して何度もカウンセリングして頂きました。


いじめを受け始めると不登校が始まる場合が多いようですね。

不登校は子どもの自己防衛本能の現れです。

恥ずかしながら二男を失ってから理解しました。

子どもは、ストレスから、頭が痛くなりお腹が痛くなり、登校できないのは自分が悪いからと思い、

無理を重ね、心身の傷が深まります。

いじめを受けていることも、加害者ではなく自分が悪いからと思い込んでしまう追い詰められた心理になって、

いじめられていることを親にも話せない状況になります。
何年経っても後悔ばかりです。

後知恵ですが、二男には家庭は安心できるところだと伝え続けていたらと悔やまれます。

学校に行かなくても良いよ。働きに行かなくても良いよ。安心して家にいなさい。と。

子を信頼し見守り続ける親であったならと思います。

我が子を守れるのは親だけなのですから。
                                    

 

 

 

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